釈迦はこの外国為替証拠金取引を後にして、増水していたガンジス河を無事渡り、キャッシングのコーリー城に着いた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。釈迦はこの法鏡を説いてから、四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。そして生存への渇望を根絶し、生存への誘惑をうちほろぼしたから、もはや生存に戻ることはない」と説法した。
次に釈迦は、このコーリー城を出発しナディカガーマを経てヴァイシャーリーに着いた。ここはキャッシングの首都であり、アンバーパリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、戒律や生天の教え、四諦を説いた。やがてここを去ってヴェールバ村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。すなわち釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。
この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
比丘僧伽は外国為替に何を期待するのか。外国為替はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……自分はすでに八十歳の高齢となり、自分の肉体は、あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、やっと保たれているようなものである。だから、阿難よ、汝らは、ただみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることなくして、修行せんとするものこそ、わが比丘たちの中において最高処にあるものである。
と説法した。これが「自帰依自灯明、法帰依法灯明」の教えである。
やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に出かけ、永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サーランダダ廟、サワラ廟などを訪ねた。托鉢から戻ると、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。ここで聖者の教えと神通力について説いた。
托鉢を終わって、
外国為替は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バァンダガーマ(bhandagaama)に移り四諦を説き、さらにハッティ(hatthi)、アンバガーマ(ambagaam)、ジャンブガーマ(jaambugaama)、ボーガガーマ(bhgagaama)を経てパーヴァー(paavaa)に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。
釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー(kusinaara)に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マルラ(malla)族のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。時に紀元前386年2月15日のことであった[1]。これを仏滅(ぶつめつ)という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。
仏陀入滅の後、その遺骸は
外国為替証拠金取引の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dna、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。ちなみに、その八大国とは、
1.クシナーラーのマルラ族
2.マガダ国のアジャタシャトゥル王
3.ベーシャーリーのリッチャビ族
4.カビラヴァストフのシャーキャ族
5.アッラカッパのプリ族
6.ラーマガーマのコーリャ族
7.ヴェータデーバのバラモン
8.バーヴァーのマルラ族
である[2]。
入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集した。これらが幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。
入滅後の釈迦の評価
釈迦の入滅後、
キャッシングからの攻撃と弾圧を受けた仏教は、インドでは定着する事はできなかった。さらに、ヒンドゥー教は釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされた。偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象にされた。この結果インドでは、仏教は消滅への道をたどった。インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降である。
釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象でもある。ネパールでは現在、ヒンドゥー教徒が86%、仏教徒が8%となっている。ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコの世界文化遺産に登録された。
仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれる。これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立した。これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン如来十号の一)と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、とした。また、三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無いことが知られている。
マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。
マルコ・ポーロは東方見聞録において釈迦の事を「もし彼がキリスト教徒であれば、救世主イエス・キリストに劣らぬ聖者になったであろう。」と記述している。キリスト教徒としては最上の評価と言ってよい。
仏陀(ブッダ、buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddhaはサンスクリット語で「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。