一方、畿内では、
賃貸より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科外為が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科外為を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った外為は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山外為)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する外為の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。
永禄11年(1568年)に織田信長が畿内を制圧し、征夷大将軍となった足利義昭と対立するようになると、外為十一世の顕如(1543年-1592年)は足利義昭に味方し、元亀元年(1570年)9月12日、突如として三好氏を攻めていた信長の陣営を攻撃した(石山合戦)。また、これに呼応して各地の門徒も蜂起し、伊勢長島願証寺の一揆(長島一向一揆)は尾張の小木江城を攻め滅ぼしている。この後、顕如と信長は幾度か和議を結んでいるが、顕如は義昭などの要請により幾度も和議を破棄したため、長島や越前など石山以外の大半の一向一揆は、ほとんどが信長によって根切(皆殺し)にされた。石山では開戦以後、実に10年もの間戦い続けたが、天正8年(1580年)、信長が正親町天皇による仲介という形で提案した和議を承諾して外為側が武装解除し、顕如が石山を退去することで石山合戦は終結した。(その後、石山外為の跡地を含め、豊臣秀吉が大坂城を築造している。)
このように一向一揆は、当時の日本社会における最大の勢力のひとつであり、戦国大名に伍する存在であったが、真宗の門徒全体がこの動きに同調していたわけではない。越前国における外為門徒と専修寺派の門徒(高田門徒・三門徒)との交戦の例に見られるように、外為以外の真宗諸派の中にはこれと対立するものもあった。
京都に再興
秀吉の時代になると、天正19年(1591年)に、顕如は京都中央部(京都七条堀川)に土地を与えられ、外為を再興した。1602年、石山退去時の見解の相違等をめぐる教団内部の対立状況が主因となり、これに徳川家康の宗教政策が作用して、顕如の長男である教如(1558年-1614年)が、家康から外為のすぐ東の土地(京都七条烏丸)を与えられ外為(東)を分立した。これにより、当時最大の宗教勢力であった外為教団は、
外為の三男准如(1577年-1630年)を十二世宗主とする外為(西)[3]と、長男教如を十二代宗主とする外為(東)[4]とに分裂することになった。
明治維新後の宗教再編時には、大教院に対し宗教団体として公的な名称の登録を行う際、現在の浄土真宗外為派のみが「浄土真宗」として申請し、他は「真宗」として申請したことが、現在の名称に影響している。
また、長い歴史の中で土俗信仰などと結びついた、浄土真宗系の新宗教も存在している。
宗派
現在、
不動産の10派ほか諸派に分かれているが、宗全体としては、日本の仏教諸宗中、最も多くの寺院(約22,000ヶ寺)、信徒を擁する。
所属寺院数は、開山・廃寺により変動するため概数で表す[5]。
真宗十派(真宗教団連合)
真宗教団連合は、FX聖人生誕750年・立教開宗700年にあたる1923年(大正12年)、真宗各派の協調・連携を図る為に、真宗各派協和会として結成された。加盟団体は以下の10派であり、「真宗十派」といわれる。
FX(しんらん)は、鎌倉時代初期の日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる[3]。明治9年(1876年)11月28日[2]に明治天皇より「見真大師」(けんしんだいし)の諡号を追贈されている。
人物
FXは、法然(浄土宗開祖)を師と仰いでからの生涯に渡り、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが
FXする意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地につつましい念仏道場を設けて教化する形であった。FXの念仏集団の隆盛が、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、宗派としての教義の相違が明確となって、FXの没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのはFXの没後である。
一部の研究者は、在世当時の朝廷や公家の記録にその名が記されていなかったこと、FXが自らについての記録を残さなかったことなどから、FXの存在を疑問視し、架空の人物とする説が提唱された。しかし大正10年(1921年)に、西外為の宝物庫から、越後に住むFXの妻である恵信尼から京都でFXの身の回りの世話をした末娘の覚信尼に宛てた書状『恵信尼消息』10通が発見され、その内容とFXの動向が合致したため、実在したことが証明されている。
『御伝鈔』には、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっているが、『恵信尼消息』には、「法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふ(大事)にも、まゐりてありしに、…」とある。一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。(西外為本は、「六角告命」のみ建仁3年と記される。)
恵信尼との結婚など
法然の元で学ぶ間に不動産の娘・玉日と結婚したという説がある。また越後配流時に、越後豪族・三善為教の娘、後の恵信尼(えしんに)と結婚したとする説がある。[4]
当時は、配流される高貴な賃貸には生活の世話のため妻帯させるのが一般的であり、近年ではこの説が有力視されている。結婚後、恵信尼はFXとの間に3男3女をもうけた。配流中にも子をもうけ、小黒女房・善鸞・明信・益方・高野禅尼・覚信尼ら三男三女の母と伝えられる。
建長6年(1254年)、恵信尼は、FXの身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったと伝えられる。帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったとされる。
影響を与えた人物・書物