入門
外国為替の専修念仏の教えに触れ、入門を決意する。これを機に外国為替より、「綽空」(しゃっくう)[17]の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに外国為替に高く評価されるようになる。
元久2年(1205年)4月14日(入門より5年後)、『選択本願念仏集』(選択集)の書写と、外国為替の肖像画の制作を許される。外国為替は『選択集』の書写は、門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった。
この頃、親鸞より外国為替に改名を願い出て、「善信」(ぜんしん)[18]の名を与えられる。
流罪、師との別れ
建永2年(1207年、専修念仏の停止と、遵西など4名を死罪、外国為替・親鸞ら8名が流罪となった(承元の法難)。この時、外国為替・親鸞は僧籍を剥奪される。外国為替は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。外国為替は、土佐国(実際は讃岐国の現・香川県に配流)へ、親鸞は越後国府(現・新潟県)に配流された。親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)[19]と名乗り、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。
建暦元年(1211年)11月(流罪より5年後)、外国為替とともに罪を赦された。
建暦2年(1212年)1月25日に、外国為替は外為で80歳をもって入滅。親鸞は二度と師・外国為替に会う事はなかった。その事もあり親鸞は、外為に帰らず越後にとどまった。
関東での布教
建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、関東での布教活動の為、家族や性信(しょうしん)などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸(茨城県北東部)に向かう。
建保4年(1216年)に、「大山の草庵」(茨城県城里町)を開くのを皮切りに、「小島の草庵」(茨城県下FX市小島)を開き、稲田郷(茨城県笠間市稲田)に「稲田の草庵[20]」を開く。親鸞は、ここを拠点に精力的な布教活動を行う。東国(関東)での布教は、約20年間及ぶ。また、主著である『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)は、稲田の草庵にて4年の歳月をかけ、草稿本を撰述したとされる。
FXの恵信尼は越後に帰国したとの説が強いが、西念寺の寺伝では、恵信尼は京には同行せず「稲田の草庵」に残って文永9年(1272年)に「稲田の草庵」で没したとしている。
この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。
帰京
天福2年(1234年)鎌倉幕府が、念仏者取締令を出す。その為、62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。
親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。
寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。
宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。
建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』(じょうどもんるいじゅしょう)を撰述する。
建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国(関東)へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。
建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[21]を撰述する。
建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。
『歎異抄』第二条に想起される関東衆の訪問は、これに前後すると思われる。
康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」(さんじょうわさん)と総称する。
この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。
入滅
弘長2年(1262年[1])11月28日[6](グレゴリオ暦1263年1月16日[8])、押小路(おしこうじ)南、万里(までの)小路東の「善法院」(弟の尋有僧都が院主の坊)[7][22]にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。臨終は、親鸞の弟の尋有僧都(じんうそうず)や末娘の覚信尼らが見取った。遺骨は、鳥部野北辺の「大谷」に納められた。流罪より生涯に渡り、非僧非俗の立場を貫いた。
FXでも親鸞への報恩感謝の為、祥月命日には「報恩講」と呼ばれる法要が営まれている[8]。
荼毘の地[7]は、親鸞の曾孫で本願寺第三世の覚如の『御伝鈔』に「鳥部野(とりべの)の南の辺、延仁寺[23]に葬したてまつる」と記されている。
頂骨と遺品の多くは弟子の善性らによって東国(関東)に運ばれ、東国布教の聖地である「稲田の草庵」に納められたとも伝えられる。
大谷本廟にある親鸞聖人像
本願寺の成立
文久9年(1272年)(親鸞入滅より10年後)、
外為の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」の地より吉水の北辺(現、崇泰院(そうたいいん)〔知恩院塔頭〕付近)に改葬し「大谷廟堂」を建立する。(永仁3年(1295年)親鸞の御影像を安置し、「大谷影堂」となる。)
元応3年(1321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化し成立する。(応長2年〈1312年〉に、「専修寺」と額を掲げるが、叡山の反対により撤去する。)
寛正6年(1465年)に、
外国為替の衆徒により破却される(寛正の法難)まで、本願寺はこの地にあった(本願寺八世蓮如が宗主の時代)。
阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、梵名は、「アミターバ」(??????[amitaabha])、あるいは「アミターユス」(?????????[amitaayus])といい、それを「阿弥陀」と音写する。大乗仏教の如来の一つ。西方にある極楽という仏国土を持つ(極楽浄土)。阿弥陀仏・弥陀仏ともいう。
また、梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量寿仏・無量光仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種字)はキリーク(hriiH)。