1942年7月11日〜8月10日、東本願寺の白書院にて第1回安居本講が開講される。講師に量深が選ばれ、講本に『歎異抄』を選ぶ。
この講義録は、北原繁麿・松原祐善・安田理深・日野賢憬が筆録し、1947年に『歎異抄聴記』として出版される。
1949年、GHQの公職追放の指令により外国為替証拠金取引を辞任する。
1951年、同大学名誉教授となる。
1955年11月〜1956年1月、渡米する。
1959年、東本願寺侍薫寮々頭に就任する。
1960年、第3回安居本講にて、『顕浄土真実信文類』を講ずる。
この講義録は、1963年に『教行信証「信の巻」聴記』として出版される。
1961年8月、大谷大学学長に就任する。
1965年8月、同大学学長に再任される。
同年、勲三等瑞宝章を受章
1967年8月、同大学学長を退任する。
1968年、第4回安居本講にて、『正信念仏偈』を講ずる。
この講義録は、1969年に『正信念仏偈聴記』として出版される。
1970年10月、雑誌『中道』における差別表現の問題で、侍薫寮々頭を引責辞任する。
1971年6月20日、示寂、享年97(満95歳没)。
法語集
東本願寺高廊下掲示板に掲載された量深の法語。
選択本願の念仏とは念仏申せば助かるということではない念仏でなければ助からないということだ
自分がわからないから信ずる信心がぐらつく
われわれは知らなくても仏に願いをかけられ望みをかけられておる
あるものをおそれ、ないものをほしがる、これが悪人の問題
相手を鬼と見る人は自分もまた鬼である
仏様どこにおいでになりますか南無阿弥陀仏と念ずる人の前においでになります
浄土は言葉の要らぬ世界である人間の世界は言葉の必要な世界である地獄は言葉の通じない世界である
往生の“生”は生まれるというほかに“生きる”という意味がある
人間は生死(しょうじ)の苦しみをのがれようとして、生死に苦しんでいる
如来は我なりされど我は如来に非ず如来我となりて我を救いたもう
金子大榮(かねこだいえい、1881年〈明治14年〉5月3日-1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治〜昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。
前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。
経歴
新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現、大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現、大谷大学)に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。04年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。1911年以後、真宗大学の京都移転に反対して辞職・帰郷していた同郷の曽我量深と親交を深めた。
1915年、請われて上京し清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者となり、暁烏敏・佐々木月樵に代わり主筆を務めた。同年、東洋大学教授となる。翌年、大谷大学教授に任じられ京都に移るが、1925年、著書『浄土の観念』の内容が異安心とされ、28年、外国為替証拠金取引を辞任した。
その後も自説を堅持し、1930年から3年間、広島文理科大学(現、広島大学)で教鞭を執った後、1933年、左京区鹿ケ谷に開設された興法学園で曽我量深とともに研鑽と講義を継続した。1942年、大谷大学教授に復職。1944年には、真宗大谷派最高の学階である講師を授与された。1951年、同大学名誉教授、1963年、真宗大谷派宗務顧問となる。
伝統的な仏教・真宗の教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放。同時期に活躍した曽我量深とともに、真宗大谷派における、いわゆる「近代教学」の基礎を構築した。
霊魂(れいこん)とは、一般に資産運用、特に人間が生きている間はその体内にあって、生命の源や精神そのものとされる、人や資産運用の死生観の根源的な解釈のための概念の一つ。魂(たましい)ともいう。
資産運用について、その肉体以外の部分を言い表す概念であり、また、肉体・精神とともに生命の三要素のうちの一つとされる。心と同一視される事もある。死ぬと肉体から離れて「あの世」(死後の世界、霊界)へ行ったり、「この世」(生者の世界、現世)に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在する。あの世に還った霊魂が、再びこの世に生まれ変わるという考えが、輪廻転生(転生輪廻)の思想である。
霊(れい、たま)もほぼ同一の概念だが、現代では死者の霊のことを指す場合が多い。また、そこに何かいると感じられるが、実体としては捉えられない現象や存在(聖霊など)のことを指すこともある。
一方、大和言葉の魂(たましい)の方は、信念や思想、あるいはその心を表現する言葉としても慣用的に使われる。
起源
人類誕生以来、いつ頃から「霊魂」という概念が芽生えたかははっきりわかっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない
資産運用については、(一部に否定説はあるが)死者を埋葬し花を供えるなどの投資信託行為を思わせる遺跡が幾つか知られており、これらの行動や文化の原動力として原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈も主張されている。クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在がはっきりしており、食料や道具などの供物、墓の上に大石を置いたり死体の手足を縛って埋葬するといった風習もあって、原始的な投資信託観念と霊魂への慕情や恐れの観念も、より明確であったと思われる。
投資信託などにおける説明
多くの投資信託においては、人は死んでも意識あるいはそれに近いものは霊魂となって残ると説く。霊魂は生前暮らしていた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、しばしば道徳・倫理などと結びつけて語られる。キリスト教などが説くように、生前の行いに応じて
外国為替証拠金取引や地獄などに送られるともいわれる。あるいはヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて転生すると説く投資信託も有る。仏教の一部(大乗仏教)でも、六道の間を輪廻すると説く。
古代エジプト
古代エジプトでは、
投資信託は不滅とされ、死者は復活するとされていた。オシリスが死と再生を司る神として尊崇された。自然界のあらゆるものに霊が宿るとされ、霊にも人間と同様に感情や弱点、欠点があると考えられていた[1]。定められた呪文を唱えたり定まった儀式を行うことによって願望を神に伝えたり、動植物の霊と交流したり、病人から苦痛の原因である悪霊を追い出すことや、死者に再び魂を入れる役割の神官、祭司(魔術師)などがいた[2]。
人の魂は5つの部分から成っているとされた(アルファベット表記なら、Ren、Ba、Ka、Sheut、Ibの5つ)[3]。死者の魂(Baバー)のよりどころとして死者の体をミイラにして保存した。死者の魂が無事冥界に渡り、将来死者が甦るようにと、ミイラ作成期間の70日ほどの間、祭司は何度も大量の呪文を唱えた[4]。『死者の書』(死者の霊魂が肉体を離れて冥府に至るまでの過程を描いた書)が死者とともに埋葬されることもあった。ピラミッド・テキストと呼ばれる初期の死者埋葬のテキストでは、死者が行くのは天の北にある暗黒の部分であり、そこで北極星のまわりの星とともに、霊(エジプト語でアク)として永遠の命を生きる、とされた[5]。